icuniicuの長いツイート

どうも、@icuniicuと申す者です。Twitterに書きづらいツイートをもっと自由に呟きます。

カテゴライズできない人

tofubeatsのインタビューを読んでいた 

最近tofubeatsをよく聞いていて、昨日はtofubeatsインタビューインタビューを読んでスクラップした。

icuniicu.hatenablog.com

 

そこで面白いな~と思ったのが次の文章だった。

 (自分の立ち位置が)どっちにいるかもわからないし、どっちにも行こうと思ってないみたいな(笑)やっぱりわからないんですよね。でもわからないっていうことは自分の場所にいるわけじゃないですか。

 引用元は以下のサイト↓

【インタビュー】tofubeats『FANTASY CLUB』 | わからなさの明快 - FNMNL (フェノメナル)

 

tofubeatsはJ-POPの人と言い切ることもできないし、クラブミュージックの人と言い切ることもできない。そんな中で「どっちに属しているのか分からない。でも分からないということは自分の場所にいる」と言っていた。

 

 

これを読んで、人をカテゴライズすることについて考えてみようと思った。

 

人をカテゴライズするのは難しい

分類にはキリがない

「草食系男子」とか「肉食系女子」とか、人をカテゴライズするのって何となく面白いところがある。「『〇〇系』ってこんなところあるよね~」みたいな会話で盛り上がったり。テレビとかでも「最近はロールキャベツ男子っていうのがあって...」「サードウェーブ系男子っていうのが最近多くて...」みたいな特集があったり。

 

でも例えば「草食系」な人って最近突如現れた人種ではなく、女性に対して奥手な男性は昔からいて、それに最近名前がついたということで。

そこで、一見草食系だけど中身は肉食系という男性もいるよねってことからロールキャベツ男子っていうのができて。いやいやいや、ロールキャベツって料理じゃん。草食系や肉食系って「どうやって人を『食べるか』」で分類していたのに、ロールキャベツ系は「どうやって人に『食われるか』」って分類じゃん。そんなん違うじゃん。僕だったら一見肉食に見えるけど実はユーカリの葉を食っているという意味で、「パンダ系」が適切だと思うんだけど。とか。思うんだけど。

まだまだ人間って分類できると思うし、分類していったらキリがないよなと思う。

 

正確なカテゴライズはできない

幼稚園から高校くらいまで、僕はどっちかっていうと「恋愛したい!」って気持ちが強くて、ずっと彼女できないかな~って思ってた。で高校の時初めて彼女ができて、フラれて、そこからずっと「そんなに積極的に恋愛は求めてないかな...」って感じになってる。

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一見めっちゃ遊んでるように見えて、実は勉強もめっちゃやってるみたいな人もいる。

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性格は時間が経つと変わる。また、見た感じで人をカテゴライズしたところで、実は全然違う性格だったみたいなこともある。

 

人を勝手にカテゴライズするのは簡単だけど、場合によっては全然的を射てないカテゴライズだったりする。そういうとき、勝手にカテゴライズされた側は「この人全然僕のこと分かってないくせに、勝手にカテゴライズしやがって」って思うと思う。

 

大体、人をひとくくりにして、分かったように「あの人〇〇系だよね~」ってカテゴライズすることは失礼だとも思う。

 

カテゴライズするべきではないもの

右翼とか左翼とかってカテゴリーは無い方がいいんじゃないかと思っている。それって2つに分類できることじゃないんじゃないと思う。例えば「国をよくするために保守的な方法を用いる集団」を右翼、「国をよくするために革新的な方法を用いる集団」を左翼とする。でもその中間もいて、いろんな人が保守と革新の間にバラバラにいるはずだと思う。もう2つに分類できるものじゃないんじゃないかと思う。

二項対立みたいに考えられている問題って、実はカテゴライズするべきじゃないんじゃないかって思うことはある。

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カテゴライズで自分の首を絞める

例えば学派として「〇〇派」っていうのがあって、討論番組に出ることになったとする。本心では「△△派」に変わりつつある。でもテレビでは「〇〇派」としてレギュラーの番組が何本もあり、それで生活している。ここで「△△派」に変わってしまったら今までの「〇〇派」としての仕事が無くなってしまう。みたいな感じで、一度貼られたレッテルは自分にとっても得になることがあるが、逆にレッテルを剥せなくなってしまったりすると思う。そこでの苦悩があったり。

年をとると頭が固くなるって言われるけど、これって長年周りから貼られ続けたレッテルが剥せないからなんじゃないかと思うことがある。

 

 

でもやってしまうカテゴライズ

こんな風に、人をカテゴライズするべきではないと頭では分かっていても、僕はめっちゃ人をカテゴライズしようとしてしまう。

例えば「大学入学してすぐにイキり始めてる人とは友達になりたくない」みたいな。僕はこんな感じで人間関係をとても狭めたりする。でも後々話してみたら意外と楽しく話せたみたいなこともよくある。

無意識にめちゃくちゃカテゴライズしてしまうのは、僕が人に対して用心深いからだと思っている。「こういう行動をする人は嫌な奴の可能性が高い」とか「こういう見た目の人とは話が合わない可能性が高い」みたいな経験を積み重ねて、確実に仲良くなれそうな人としか友達にならないんだと思う。

もっと自分がオープンになればカテゴライズする必要もなくなって、よくなると思う。別にオープンになれなくても、カテゴライズしすぎるのは良くないって思ってるだけでも自分の偏見が減っていくんじゃないかと思う。

 

「あなたはカテゴライズできない」って言われるのが嬉しい

最近友達に「あなたがもっとよく分からなくなった」といわれた。それを言われて嬉しかった。だって本当は人ってカテゴライズできるものではなくて、実は本当に色々な面がある。僕をカテゴライズせず、そういう色々な面に目を向けてくれた気がした。

 

自分が分からないということは、自分でいれているということ

かねてから「自分のことがよく分からない」と思っていた。「昔はこう考えていたはずなのに、何で今は真逆の考え方を持っているんだろう?」とか「今ふと浮かんだこのアイディア面白くないか...?よく僕がこんなの思いついたな...」とか。自分がどういう人なのかは全然分からなくて、ずっと興味がある。自分のことをもっと知りたいと思う。

tofubeatsの言葉を聞いて、これって凄い健全な証拠なのだと思えた。

自分がどこにいるか、どこに向かっているか分からないって思うってことは、自分のことがカテゴライズできないということで。本来色々な側面を持つ自分に対して、向き合うことができているんだと思えた。

 

まとめ

ある人を正確にカテゴライズすることはできない。もしカテゴライズしてしまったら必ずそこに偏見がついてきてしまう。逆にその人をカテゴライズするのを諦めて、その人の色々な側面に向き合ってみると、お互いに嬉しいかもしれない。

 

お笑いとか、大喜利とかって偏見まみれの表現が沢山あるんだけど、そういうのは好き。ただそのカテゴリーや偏見を個人に当てはめるのは控えていきたいということをお思った。